「 フランシス・ジャム 」2016年12月24日 10:08

「 フランシス・ジャム 」 


16歳の少年がフランシス・ジャムを知ったのは
地方の小さな書店できまぐれに彼の小さな詩集を手にとった
それだけのきっかけによってだ


  「 神さま わたしはよろけながら歩いている
    驢馬のやうなものです・・・」            ※1


公証役場見習書記ジャム氏とは
つまりそのようなロバであり
棘に苛まれる柊の詩人だった
このことを理解するのは少年が随分年齢を重ねてのことだ
書店の小さな書架にこじんまりおさまっていたジャム氏は          
かくして少年の所有物となった


今では詩集はすっかり黄ばみ朽ちかけているが
ページを開けばいつも
サンタのようなひげを蓄えて大柄な
優しげで困った様子のジャム氏が現れてくれるようだ


   「 神さま、あなたはぼくを、人の世にお呼びになった。
    それでぼくはここにおります。
    ぼくは苦しみ、そして愛します」        ※2


人の生きてあることとは
この世に呼び出されてあることだと告げるジャム氏
だから苦しみと愛のロンドをうたいもするジャム氏
もちろん16歳の少年がその息づかいやその機微を
どうして理解することができたろう
いやいや その何倍もの年齢を重ねた今だって
ジャム氏にあふれる愛を理解しかねているじゃないか
むしろ
この世に呼びだされた混乱と過誤を無様に積み重ねる失態だけが
少年にとっては唯一自分を確かめる段取りとなっていたのだから
まして 「静かに頭を下げ」重荷を背負いよろつきながら   ※3
棘なす「柊の生垣沿いに歩いて行く」驢馬にこそ        ※4
「 天鵞絨(ビロウド)」の「眼(マナコ) 」が宿るのだよと         ※4
ささやくジャム氏から少年のこころははるか遠くにあった


   「 お前が挽いているその荷車よりもっとみすぼらしい
     灰色の乞食のやうな驢馬よ
        ・・・・・・・・・
     お前がお前自身なので
     人間はお前の胸ぐらを靴で蹴るんだよ 」        ※5


出会い 行き過ぎ そののちふりかえる
ふりかえっては過失の深さにあわてふためき消去を試しみる 
そのこずるさによって更に見失い続ける己のみちゆきを
黄ばんでゆく記憶の彼岸においやろうとするが
それはいつしか必ず立ち戻り
未了のしるしを 
澱んでにごる瞳にあやまたず突き立てるだろう     
柊を忌避し 重荷を否み 頭を高くかざしてあろうとして    
あいも変わらず繰り返すその愚かさ


こうしてぼくは己のほつれをおそれる案山子となり
そのほつれをひたすらかがる糸にもなった  
かがりながらもなお己を切り離そうとする恐慌の糸に絡まれて
ぼくはぼく自身であることのほつれをいっそう露わにするばかり
その滑稽と混乱の発する軋みの騒々しいこと
その軋みの増幅のいっこうに収まらぬこと
これら自同律の恐れにとらわれればこそ
「よろけながら歩く」ばかりの                    ※1
「みすぼらしい灰色の乞食のやうな驢馬」の           ※5
その確かないのちの姿が
その非力な無欲が
その粗末な無垢が
畏れの姿となってふくれあがるばかりであれば
ぼくもまた その「胸ぐら」めがけ蹴り上げる錯乱の靴に
我が身を我が心を転じようとする


だからこそ この靴先が 宙浮くその一瞬にこそ
ぼくは訪ねなければならない フランシス・ジャム氏に
「 ろばほどのやさしさはない 」                    ※5
ぼくなのだが  

   
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 ※1  ジャム「星を得る為の祈り…」(堀口大學訳)より
 ※2  ジャム「明けの鐘から夕べの鐘まで -序詞」
(手塚伸一訳)より
 ※3  ジャム「驢馬と連れ立って天国へ行く為の祈り」
(堀口大學訳)より
 ※4  ジャム「私は驢馬が好きだ…」(堀口大學訳)より
 ※5  ジャム「明けの鐘から夕べの鐘まで」
「ぼくはろばが好きだ・・・」(手塚伸一訳)より
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つれづれにしたためた作文を投稿させていただきます。本人は「詩」を書いているつもりですが,、恥ずかしながら「詩」とは何かがわかっているわけではありません。

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