「 ごみ と お寺 」 ― 2015年10月04日 11:55
「 ごみ と お寺 」
ネットを散歩していたら、京都のお寺が清掃工場建設反対の看板を立てているところに出会った。
多くの著名人が賛同の血判書を署している。
なんでもくだんのお寺から380メートルの距離にその建設予定候補地があるとのこと。
廃棄物焼却施設。
典型的な「迷惑施設」として市民からいみ嫌われる。
自分がごみを出してしまうのは、この際、問題視されない。
ごみは当然、処理してほしいのだ。
それも、一刻一秒も早く、目の前から消えてほしい。
ごみとは、すみやかに、迷惑をかけないように、排除してほしい。
ごみのことでとやかく考えたくない。
ごみのことで無駄な労力を掛けたくない。
ごみとは「ゴミ」、不潔で邪魔な排出物。
ごみとは自分とは異質なものなのだ。
その異質なものを目の前に突きつけるとはなんたることだ。
過剰な包装、無駄で贅沢な使い捨て、そんなごみを作り出す社会のしくみなど、この際、問題視されない。
ごみを出してしまう当事者のこと、余計にごみを作り出す消費生活の質や歪んだ美意識・環境のことなど、
この際、問題視されない。
まして「お寺」は聖地聖域である。
まして「お寺」は観光資源である。
「お寺」は格別なのである。
「お寺」は別格なのである。
お寺の近くに迷惑施設、しかも、いわんことか「ごみ」処理施設など、お寺の尊厳を
損ね、お寺の文化を汚す最たるものだ。
生み出されるごみのことを「お寺」は考えない。
生み出され、生み出すごみのことを「お寺」に賛同する建設反対者は考えない。
それは「お寺」のせいではない。
「お寺」はごみに無縁だ。
「お寺」は衆庶がだすごみに関心などない。
関心があるのは、迷惑施設、しかも、ごみ処理施設が近くにできることが問題なのだ。
では、何メートル離れれば良いのか。
何メートル離れれば、あとは白川夜船なのか。
何メートル離れれば、当然、逆に何メートル近づく他のポイントが存在する。
だが迷惑施設反対運動は、まずそのことを考えようとしない。
これは Not In My Backyard をさけぶ人びとの大原則だ。
それは社会的共同課題化を回避して自己正当化を訴える市民的エゴイズムそのものだ。
「お寺」も俗衆の一員、宗教の皮をかぶった市民的エゴイストだということか。
ごみ焼却施設問題、ごみ最終処分場問題は、市民が共同で解決しなければならない重要課題だ。(もちろん、生産者責任はお断りするまでもない。)
この問題へのアプローチは、まず「ごみ」そのものを社会がどのように理解可能かにかかわる。
100年以上前に制定された、ごみ処理責務を市町村においた法律(汚物掃除法 1900年)は、当時の伝染病
対策など衛生問題が重点課題だったが、そのために、廃棄物の処理責務は市民から遠ざかることとなった。
(明治以前、ごみ処理は地域共同体の課題であり、また、廃棄物の量も質もそうした地域住民による処理を可能としていた。)
こうした法的環境、ごみ処理の技術的環境が100年間以上も続くなかで、ごみはますます市民住民にとって忌避物となり、ごみに対する認識を稀薄なものとしつづけた。
しかし、この世の中で、ごみ(屎尿をふくめ)を排出しないで暮らしてゆけるものが存在するだろうか。
あるいは、ごみの減量、資源化に関心をもって、ごみを自分にとって身近なものと理解しようとしている人びとは、社会において多数派になっているだろうか。
ごみ処理施設計画にさらされている「お寺」にとっては、むしろこの機会を前向きにとらえ庶民より一段高い視点から「ごみ問題」の一環として自分にかかっている課題としてほしいものだが、
まぁ、無理なんだろう。
「お寺」はごみ問題など関係がないのだ。
お寺の近くにごみ処理施設ができることだけが、問題なのだから。
なお、計画主体の奈良市や担当者がどのような姿勢で地域住民やお寺に対しているか、私は知りません。
ただ一般論として言えることは、行政・公務員は、まだまだ市民と向かいあう方法や意味を理解していません。
市民・地域は被統治対象であるというのが、今なお、行政・公務員の無意識的レベルの姿勢だと思います。
もっといえば、行政とは市民を公民として疎外する機関です。
( 疎外せざるをえない機関です。)
個別市民は個別利害でつながったり、対立しあう存在です。
本来アナーキーな関係性を構成する市民を公民として共同成員へと包括する機関が行政です。
公務員は、そのような機関の一員として働きます。
当然、市民と公務員との間に矛盾が発生します。
市民は市民で、公務員の待遇がどうとかひがみやねたみ根性まるだしに対峙します。あるいは、そういう感性的な思いを潜伏させます。
こうした生産的でない関係性は、共同性の歴史的位相がどのようなものかを時にはスキャンダラスに露出させます。
市民との「協働」などという言葉がようやく行政にも定着してきましたが、この「協働」という意味をしっかり理解できている(理解しようと苦労している)行政・公務員はまだまだ少数派で、
そのような公務員は、内部的には邪魔者として干されるのが現実でしょう。
行政とにって市民とは、第一義的に啓発すべき対象、統治すべき対象でなければならないのです。
そのような関係性を強いるような権力構造だからです。
そのようなレベルに行政を押しとどめている責任は、「市民」の方にこそあるのですが、この
ことは話題を超えるので、このあたりで止めます。
(げ)
ネットを散歩していたら、京都のお寺が清掃工場建設反対の看板を立てているところに出会った。
多くの著名人が賛同の血判書を署している。
なんでもくだんのお寺から380メートルの距離にその建設予定候補地があるとのこと。
廃棄物焼却施設。
典型的な「迷惑施設」として市民からいみ嫌われる。
自分がごみを出してしまうのは、この際、問題視されない。
ごみは当然、処理してほしいのだ。
それも、一刻一秒も早く、目の前から消えてほしい。
ごみとは、すみやかに、迷惑をかけないように、排除してほしい。
ごみのことでとやかく考えたくない。
ごみのことで無駄な労力を掛けたくない。
ごみとは「ゴミ」、不潔で邪魔な排出物。
ごみとは自分とは異質なものなのだ。
その異質なものを目の前に突きつけるとはなんたることだ。
過剰な包装、無駄で贅沢な使い捨て、そんなごみを作り出す社会のしくみなど、この際、問題視されない。
ごみを出してしまう当事者のこと、余計にごみを作り出す消費生活の質や歪んだ美意識・環境のことなど、
この際、問題視されない。
まして「お寺」は聖地聖域である。
まして「お寺」は観光資源である。
「お寺」は格別なのである。
「お寺」は別格なのである。
お寺の近くに迷惑施設、しかも、いわんことか「ごみ」処理施設など、お寺の尊厳を
損ね、お寺の文化を汚す最たるものだ。
生み出されるごみのことを「お寺」は考えない。
生み出され、生み出すごみのことを「お寺」に賛同する建設反対者は考えない。
それは「お寺」のせいではない。
「お寺」はごみに無縁だ。
「お寺」は衆庶がだすごみに関心などない。
関心があるのは、迷惑施設、しかも、ごみ処理施設が近くにできることが問題なのだ。
では、何メートル離れれば良いのか。
何メートル離れれば、あとは白川夜船なのか。
何メートル離れれば、当然、逆に何メートル近づく他のポイントが存在する。
だが迷惑施設反対運動は、まずそのことを考えようとしない。
これは Not In My Backyard をさけぶ人びとの大原則だ。
それは社会的共同課題化を回避して自己正当化を訴える市民的エゴイズムそのものだ。
「お寺」も俗衆の一員、宗教の皮をかぶった市民的エゴイストだということか。
ごみ焼却施設問題、ごみ最終処分場問題は、市民が共同で解決しなければならない重要課題だ。(もちろん、生産者責任はお断りするまでもない。)
この問題へのアプローチは、まず「ごみ」そのものを社会がどのように理解可能かにかかわる。
100年以上前に制定された、ごみ処理責務を市町村においた法律(汚物掃除法 1900年)は、当時の伝染病
対策など衛生問題が重点課題だったが、そのために、廃棄物の処理責務は市民から遠ざかることとなった。
(明治以前、ごみ処理は地域共同体の課題であり、また、廃棄物の量も質もそうした地域住民による処理を可能としていた。)
こうした法的環境、ごみ処理の技術的環境が100年間以上も続くなかで、ごみはますます市民住民にとって忌避物となり、ごみに対する認識を稀薄なものとしつづけた。
しかし、この世の中で、ごみ(屎尿をふくめ)を排出しないで暮らしてゆけるものが存在するだろうか。
あるいは、ごみの減量、資源化に関心をもって、ごみを自分にとって身近なものと理解しようとしている人びとは、社会において多数派になっているだろうか。
ごみ処理施設計画にさらされている「お寺」にとっては、むしろこの機会を前向きにとらえ庶民より一段高い視点から「ごみ問題」の一環として自分にかかっている課題としてほしいものだが、
まぁ、無理なんだろう。
「お寺」はごみ問題など関係がないのだ。
お寺の近くにごみ処理施設ができることだけが、問題なのだから。
なお、計画主体の奈良市や担当者がどのような姿勢で地域住民やお寺に対しているか、私は知りません。
ただ一般論として言えることは、行政・公務員は、まだまだ市民と向かいあう方法や意味を理解していません。
市民・地域は被統治対象であるというのが、今なお、行政・公務員の無意識的レベルの姿勢だと思います。
もっといえば、行政とは市民を公民として疎外する機関です。
( 疎外せざるをえない機関です。)
個別市民は個別利害でつながったり、対立しあう存在です。
本来アナーキーな関係性を構成する市民を公民として共同成員へと包括する機関が行政です。
公務員は、そのような機関の一員として働きます。
当然、市民と公務員との間に矛盾が発生します。
市民は市民で、公務員の待遇がどうとかひがみやねたみ根性まるだしに対峙します。あるいは、そういう感性的な思いを潜伏させます。
こうした生産的でない関係性は、共同性の歴史的位相がどのようなものかを時にはスキャンダラスに露出させます。
市民との「協働」などという言葉がようやく行政にも定着してきましたが、この「協働」という意味をしっかり理解できている(理解しようと苦労している)行政・公務員はまだまだ少数派で、
そのような公務員は、内部的には邪魔者として干されるのが現実でしょう。
行政とにって市民とは、第一義的に啓発すべき対象、統治すべき対象でなければならないのです。
そのような関係性を強いるような権力構造だからです。
そのようなレベルに行政を押しとどめている責任は、「市民」の方にこそあるのですが、この
ことは話題を超えるので、このあたりで止めます。
(げ)
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